昭和40年7月23日 朝の御理解
信心に、修行はつき物だと、「んん」、されております。様々、お互いが、工夫をさせて頂いて、修行させて頂いておりますが、「えへへん」、修行は出来ておるけれども、精進不足ということが在りますよねえ。これこれの修行は人並みのことはするけれども、その修行から修行の合間が、出来ていないということ。私は、今日それを、精進不足ということを、切実に、ま、感じたんです。三代金光様は、御結界に、お越しになりますと、真正面がこう、半分がこう、障子こう、締め切ってある。それで、夏になりますと、やっぱりあそこが、暑くなりますから、誰かが、こう、障子を開けられるんですねえ。いくらかでも、風通しをこう、良くして差し上げようとして、先生方が、なさるんでしょうねえ。ところが、いつの間にか金光様はお閉めになるそうですね。いつお閉めになって、だから、あそこは、「あー、もう、閉めんでもいいですよ」とは仰らない。やっぱその、金光様のことを思うてから開けられるのですから、そのことは、そのこととして受けておられてから、また、その何時、誰が、分らんけど、閉まっておるそうなんです。冬なんかは、ですから出来るだけ、隙間風が入っちゃならないということで、出来るだけ閉めるんです。「ね」、その時、こう閉められるとですね、金光様は、必ず、いつの間にかお開けになっておられる。
「ね」、例えば、ああした、その御結界にご奉仕くださるという事実、実に、このう、ご修行くださるということだけでも大変なことである。朝の、四時のご奉仕に、それこそ、一分、一秒だって、お間違いなく、ご修行くださるということとても、人の真似の出来ることではない、しかもそれは、七十年間ということですから。「ね」、そういう修行をなさっておられるにもかかわらず、絶えず、精進しておられる。「ね」。暑いときに、皆が、開けられると、そこを、いつの間にか閉めておられる。寒いときに、誰かが、閉めておると、いつの間にか開けておられる。私共は、そこんとこが反対である。もう、あそこを一杯に開けとかにゃできん、夏は。冬は、もうしめとかにゃできん。時に、あのう、そういう精進の精神がないにしても、神ながらにです、神ながらにです。誰かが閉め、誰かが開けるならです、もう、それで良かろうはずなのだけれども、おー、とても、どうした訳じゃろうかというぐらいに、また閉められる。と、御祈念中にそんな気がするんです。
私は、もう一つ、神山先生に御願いしてから、「あそこは、 朝、一杯にあけといてください」ち。もうあそこを、ちょこっとばかり閉めたとたんにですね、もう、汗がずーっと全身に出てくるんです。びっしょり。それで、窓際で御祈念している人が、風が来すぎるかなんかち、いうんでしょうね、御祈念中に立ち上がって行ってから閉める人がおる。だから、これはもう、どっちもどっちです。私もそれが、気になるようなことじゃいけんなあ、勿論、雨が降ってくるとか、降りこんでくるとかいうならいざ知らず、立ち上がって行ってから、あそこば、開けたり、閉めたりしよる。それが、御祈念中に気になるようなことでは、これは、もう、本当に相すまんことで、まあ、私自身のいわば、精進不足というものを感じました。「ね」、精進するということ。これは、あの、仏教の言葉ですけども、例えば、今日は、誰々の、発ち日だとか、「ね」、えー、亡くなられた日をいわゆる命日と、いうて精進をする。「ね」、今頃はあんまり、そういうようにいうて、する人はなかったけれども、いわゆる、私共の、子供の時分には、どこの家庭でもそれを実に現実になさっておったですね。今日は、おじいちゃまの日だから、今日は、もう、朝から生くさい気は取らない。「ね」。今日は、精進日だとして、いわゆる仏様の前に精進をする。精進をするということは、自分の心を、いうなら、仏様なら仏様に、向けておるということですから、なるほど私は、仏様が喜んで下さるだろうと私は、思うんですね。私どもが、暑ければすぐ、楽な格好をしたがる。寒ければ、言われんでも着てから、暖をとろうとする。だから、それを言うんですけど、それが、ほんなら、神ながらにですねえ、それが、いけないならばです、そこんところを精進させて頂くという精神が、あったら良いのですけれども、「ね」。だから、これだけの修行が出来ておるというだけではなしにですね。これからこれだけを一生懸命できんなら修行が出来よるとね。けれども、もう、その、修行の時間なら修行の時間を、はずすと、いわば、開放的になる。開放的になるということは、だらしがなくなる。いわゆる、気持ちを欠くわけなんですよ。だから私は、精進ということ、私は、今日とくに、思わせて頂くんですけども、修行させて頂くと同時にその間の慎みといったようなものがです、「ね」、精進させて頂くということに繋がるようなおかげを頂いたら、その修行がいよいよ生きて来るんだというような気が致しますですね。
御広前だけでは、お互い正座させて頂いておりますけれども、あちら下がったらもう、いたまぐらをするという。ですから、例えばそこんところを精進させて頂く気持ちになったら、まあ、それだけでも心が神様に向こうているのである。修行しておるとき、拝んでいるときだけが、神様に向かっているのじゃないんです。そのところが自分の心が、神に向こうておくというような信心。だから、実を言うたら、修行も精進も、同じ様なことかも知れませんけれども、今日は、私は、そこんところを二つに切ってお話をしたんですけれどもね。信心に修行はつき物だと。ですから、これこれだけは修行だと思うてとこう、人も出来んような修行をなさるけれども、修行と修行の合間がいけないのです。金光様の場合の例を取らして頂きましたら、只今申しますようなこと。絶えず精進しておられる。絶えず、謹んでおられる。「ね」、今日は、御霊様のおー、例えば命日だからと、私は、仏教は拝まんかって、よう出けておると思いますねえ。日ごろは、例えば、放埓でありましてもです、仏さんの日だけはその、精進でもさせてもらおうというのですから、そん時だけでも信心にならしてもらえる。どうでしょうかねえ、お互い、御宗旨にならして頂いておれば、もう、御霊様に改式をしておる方がほとんど、お祭りしておられるんですから、「ね」。まあ、おばあちゃんが好きだったから、おじいちゃんが好きだったからというて、まあ、お茶を沸かしたり、牡丹餅の一つも、作ったりと、そげなことはでけんに致しましてもです、今日を、精進日としてです。あのお、心を御霊様に向けられるような、私は、そういう態度というですかね、信心させていただくものは、必要じゃないだろうかと。「ね」。
それを段々目ごもう、やってまいりますと、日々の、いわば、精進、修行というものがです、勿論これは、修行である、同時に、これは、これだけは信心させて頂いておるというような、謹みも深いというか、おかげだと。それは、謹んでおるというだけではなくて、「ね」、例えば、そのお酒を取りたいと、いやあ、今日は精進日だからと。心つけているだけでも、私は、神様に心が向くと思う。どうぞ今日は、一つそういう、精進と。私共は、修行させて頂いておるけれども、精進の精神にかけておるのではないだろうか。だからこそ、昨日、今日感じますし、きのうも、そうでした。あすこを一杯開けておるのを、誰かが閉める。とたんに汗がびっしょり出る。ですから私今日、久保山先生に、「明日からあそこは、開けておいてください」ち。「閉めるとがおったら、注意をしてください」ち。というようなことを言わなければならんのであり、今日は、またそれを繰り返しておるもんですから、御祈念中に、いわば、汗がじっと、出てくると、もう、神様には向かわずに、どうしたことじゃろうかと、こっちのこと共考えよる。そして、まあ、結論として感じたことですね、金光様のそれを。結局私にですね、いわば、精進の精神が希薄であるから、無いから、そういうようなことを思わなければならんのだといったようなことを、感じたんです。どうでしょうか皆さん。ま、そのう、今日なら今日と、ま、例えば、御霊様の日なんかは、仏教的にです、今日は、精進日として、ほんとに何か、謹んだ精進をなさる心を、神様に向けられるところにです、心を神様に向けておけば、御霊様にこれだけを向けておけば、御霊様が喜んで下さるような、何物かを心に感ずる。神様を取りはずさんでも済む何物かを心に体験することが出来る。それが、日々の修行であり、それが、精進ということになってきたらです、本当に有難いおかげが頂けるじゃないかといったようなことを感じます。おかげを頂きました。